ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学

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ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学   江澤健一郎 著





ユベルマンの「イメージの前で」を和訳した江澤先生の著書
フランスの思想家ジョルジュ・バタイユが「ドキュマン」誌で展開した、
イデアリスムに抗する不定形という思想のうちに、ラスコー論にまでいく図像や、
造形に関する思索を見いだした。《不定形》を解明していきます。



バタイユといえば......
無神学大全三部作を軽く断念した思い出しかないです.....。
あとは、眼球譚も軽く断念したような。





内容は
第一章 割れた鏡の中から、亀裂を抉りながら
第二章 「ドキュマン」における不定形の美学
第三章 芸術の誕生をめぐって
第四章 人間の形象
第五章 表象の抹殺、口を開く裂け目
結論 形態のしたにあるもの



非形相的形態ー不定形
非形相といっても、単になにもなければよいというものではない。と。なにも描かれていないカンヴァスあるいはオール・オーヴァーの単彩が、それだけで非形相的であると、物質的であると称賛されるわけではない。確かに我々は「形なきもの」としての純粋物質の次元を想定することが出来る。しかし、その次元は到達不可能な次元としてある。つまり、通常は、「なにも描かれてないカンヴァス」はただの「無地のカンヴァス」として認識され、単彩の画面は単なる「彩色面」として認識されるだけである。単に無形態であるだけでは、物質の次元は現れてこない。これはたとえば、バタイユが内在性として定義する動物性の次元にかんしても同様である。われわれはもはや動物に戻ることはできない。動物を真似ようとも、すでに言語の次元に浸かったわれわれ人間は起源へと帰ることはできない。内在性の次元へと遡行するには、言語的なものの侵犯が必要であり、その侵犯の動きのうちに、われわれは内在性を体験し、垣間みる。これは純粋物質に次元についてもいえる。形態を与件とするわれわれは、形態を侵犯しなければ物質へと近づくことはできないのである。「ドキュマン」において、バタイユが用いた「不定形」という概念は、「無形態」ではなく、まさにそのような侵犯的形態、いわば、形態未満の非形相的形態を指していた。とある。

特に興味が湧いた項では、人間の形象の否定から神的な人間の形象へ
先史時代の洞窟壁画は、体験的な場と時間の芸術であった。と、これだけで、読んでいて、想像が膨らみ自分をその時代に投影させてみた。今の自分の思想や創作力で何を創るか?と、あるいは今の自分の思想ナシで、この時代ならばこう生きる、そしてアウトプットをどうするか?などいろいろと楽しめました。続きます。ー、内在的な体験が生起する場所ではあったが、その体験は動物性への遡行に等しい出来事であった。それゆえに、洞窟において描出されたのは主に獣たちの姿であり、バタイユの説によれば、動物的なものは、ラスコーの人間達にとって宗教的な力を、なにものにも馴化されない至高な性質を帯びていた。洞窟に描かれた多様な動物の群れは、それ自体において価値を持ち、内在的で非人称的な至高性を放っていた。それに対して人間の形象は、当時の人間にとっては絵画化されるに値する魅惑を備えていなかったのである。人間は獣とは異なり、、世俗的な活動に手を染めた隷属的な存在であった。と。




..これは時間かかりますね。
一回読み終わりましたが2回3回と読みこんでいくと更に面白くなりそうです。



バタイユの「消費の概念」や、「空の青」、
「内的体験」「有用なものの限界」をもう一度読み直してみたくなりました。