Archive for 4月 2012

BIOSOPHIA of BIRDS






BIOSOPHIA of BIRDS

from the collection of the yamashina institure for ornithology

edited by akishinonomiya fumihito + yoshiaki nishino

photographed by yoshihiko ueda


the university museum, the university of tokyo  2008




写真家上田義彦さんが山階鳥類研究所の鳥類標本を撮影した写真集
東京大学総合研究博物館で開催された
「鳥のビオソフィア 山階コレクションへの誘い」展に沿って企画された内容です。


なんと、ディレクションは原研哉さん!
編集は秋篠宮文仁 総裁・西野嘉章先生


標本の写真集ですね。
写真が存在感あるから生きてはないけど生命体としての強さが写真で現れてます。
頁を開くと右が写真で左が白地に標本体のサイズ名称等の記載があります。

開いたときのデザインが凄すぎます。





ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学










ジョルジュ・バタイユの《不定形》の美学   江澤健一郎 著





ユベルマンの「イメージの前で」を和訳した江澤先生の著書
フランスの思想家ジョルジュ・バタイユが「ドキュマン」誌で展開した、
イデアリスムに抗する不定形という思想のうちに、ラスコー論にまでいく図像や、
造形に関する思索を見いだした。《不定形》を解明していきます。



バタイユといえば......
無神学大全三部作を軽く断念した思い出しかないです.....。
あとは、眼球譚も軽く断念したような。





内容は
第一章 割れた鏡の中から、亀裂を抉りながら
第二章 「ドキュマン」における不定形の美学
第三章 芸術の誕生をめぐって
第四章 人間の形象
第五章 表象の抹殺、口を開く裂け目
結論 形態のしたにあるもの



非形相的形態ー不定形
非形相といっても、単になにもなければよいというものではない。と。なにも描かれていないカンヴァスあるいはオール・オーヴァーの単彩が、それだけで非形相的であると、物質的であると称賛されるわけではない。確かに我々は「形なきもの」としての純粋物質の次元を想定することが出来る。しかし、その次元は到達不可能な次元としてある。つまり、通常は、「なにも描かれてないカンヴァス」はただの「無地のカンヴァス」として認識され、単彩の画面は単なる「彩色面」として認識されるだけである。単に無形態であるだけでは、物質の次元は現れてこない。これはたとえば、バタイユが内在性として定義する動物性の次元にかんしても同様である。われわれはもはや動物に戻ることはできない。動物を真似ようとも、すでに言語の次元に浸かったわれわれ人間は起源へと帰ることはできない。内在性の次元へと遡行するには、言語的なものの侵犯が必要であり、その侵犯の動きのうちに、われわれは内在性を体験し、垣間みる。これは純粋物質に次元についてもいえる。形態を与件とするわれわれは、形態を侵犯しなければ物質へと近づくことはできないのである。「ドキュマン」において、バタイユが用いた「不定形」という概念は、「無形態」ではなく、まさにそのような侵犯的形態、いわば、形態未満の非形相的形態を指していた。とある。

特に興味が湧いた項では、人間の形象の否定から神的な人間の形象へ
先史時代の洞窟壁画は、体験的な場と時間の芸術であった。と、これだけで、読んでいて、想像が膨らみ自分をその時代に投影させてみた。今の自分の思想や創作力で何を創るか?と、あるいは今の自分の思想ナシで、この時代ならばこう生きる、そしてアウトプットをどうするか?などいろいろと楽しめました。続きます。ー、内在的な体験が生起する場所ではあったが、その体験は動物性への遡行に等しい出来事であった。それゆえに、洞窟において描出されたのは主に獣たちの姿であり、バタイユの説によれば、動物的なものは、ラスコーの人間達にとって宗教的な力を、なにものにも馴化されない至高な性質を帯びていた。洞窟に描かれた多様な動物の群れは、それ自体において価値を持ち、内在的で非人称的な至高性を放っていた。それに対して人間の形象は、当時の人間にとっては絵画化されるに値する魅惑を備えていなかったのである。人間は獣とは異なり、、世俗的な活動に手を染めた隷属的な存在であった。と。




..これは時間かかりますね。
一回読み終わりましたが2回3回と読みこんでいくと更に面白くなりそうです。



バタイユの「消費の概念」や、「空の青」、
「内的体験」「有用なものの限界」をもう一度読み直してみたくなりました。




日本美術の歴史



日本美術の歴史    辻 惟雄 著



奇想の系譜でもおなじみの辻惟雄先生の著書
とりあえず豪華!装幀が横尾忠則さん!
オールカラーに近い、殆どの頁に美術作品の写真が挿まれてます。
内容は



第一章 縄文美術 原始の想像力
第二章 弥生・古墳美術
第三章 飛鳥・白鳳美術 東アジア仏教美術の受容
第四章 奈良時代の美術(天平文化) 唐国際様式の盛行
第五章 平安時代の美術(貞観・藤原・院政美術)
第六章 鎌倉美術 貴族的美意識の継承と変革
第七章 南北朝・室町美術
第八章 桃山美術 「かざり」の開花
第九章 江戸時代の美術
第十章 近・現代(明治ー平成)の美術




449頁で何千年もの美術・思想を遡るのですから速い早い。
でも一気に読めます
なんといっても、最後の頁にある「作品名・事項索引」がいいですね〜。
あかさたな順で古今の作家、作品、キーワードが検索できるという頁。
これいりますよ〜。

歴史順での美術、思想の遡りなので、遡り方は他の本も一緒なのですが、
この本は作品にスポットをあてて、それにその時代の背景と思想を落とし込んでる点。
まあ一緒なんですが、「この時代に創られたのはこの作品!」ではなくて、
「この作品が創られたのはこういう時代!」ってところ
僕は工芸の仕事をしているからやはり、奈良・平安・鎌倉時代が好きです。
漆はこの時代に技法・表現法がすべて完成されたといわれていて、
現在の漆の技法(製作法・道具)はこの時代から変わっていません。




歴史の前に、美術とはなにか?をとりあげている
「美術」とは、明治のはじめ、西洋のfine artを日本語に訳してできたものであり、それ以前からあった概念ではない。それに類する言葉としてartに対する「技芸」があげられる。
絵画と書は「書画」として一緒になっていた。彫刻という言葉もそれ以前にはなかった。工芸は絵画ともども「工」の概念のなかに収まっていた。建築、庭園も明治の新造語である。
「美術」は、その他もろもろの文化、学術の用語とともに西洋生れの概念にほかならない。だが「日本美術」といった場合、その中身は国産品である。江戸時代までの国産の「もの」のなかから、明治の偽政者が何と何を「美術」に選んだかの問題がそこに生じる。「書」のように、「美術」や否やの論争がかつてり今もなお決着をみない分野もある。幕末の民衆に歓迎された松本喜三郎の生人形のように、「美術」の選に漏れて世に埋もれてしまった「もの」もある。こうした問題が美術史家の間で取りざたされいる。

こうしたややこしい〈概念形成史〉の問題を冒頭から持ち出すと、それがいったいどうした?と、ことほど左様に、いまの私たちは「美術」の概念になじんでしまって、いまさら別の言葉をさがせといわれても困る。たとえば「造形」にしてもどうも使いにくい。当面方法は、「美術」という言葉をそのままにしておいて、中身を柔軟にかえてゆくよりほかにないのではないかー。と


langdon warner の「永続する日本美術」の序文で、
(日本美術の)変化のあわただしさは、私がいつも感じていることを強調するように思われる。それは消えたかと思うとまた不意に、新しいがそれとわかる、別の流儀であらわれ、前にそれが別の気分でそこにあったことを確信させるところの、日本美術の永続的な傾向である。と書かれています。




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